大東流合気柔術について
大東流の起源は諸説ありますが、、伝えられた秘伝の書によると
清和天皇の末孫である新羅三郎義光公に始まり、 甲斐武田家に代々伝えられた秘伝の武術とされています。
明治になって大東流中興の祖と呼ばれる武田惣角先生によって裁判官、軍人、警察官、武道家、その他の名士に広く伝えられました。
ただ、記録によると教授期間は通常七日から十四日であり、十日間稽古が最も頻繁に行われていました。
そんな中で亡くなられるまで居を構えた北海道で二十年間過ごされています。主要な弟子や教授代理允可者に北海道出身者が多いのはそのためです。
武田先生の教えは力の強い体力のある人には柔術(主に逆手、関節技)を教え
力も体力もない人には合気(合する気)の技を伝えました。
それが大東流といっても伝わっている技が道場によって違う理由となっています。
武田惣角先生;大東流合気柔術中興の祖
弟子には佐川幸義、植芝盛平、堀川幸道、久琢磨など
堀川幸道先生 永世名人位
堀川先生は病弱で体力もなかったため、武田先生から「いい手(技)を教えてやる」と伝えられたのが合気の技でした。
1974年永世名人位を贈られる
錦戸先生曰く、修練の時、堀川先生は技はかけていただけるが、これは基本技、これは合気など説明はなく、技の掛け方についても詳しい指導はなかったとのこと。
堀川先生の弟子でも技の理解が異なるのはそのためと考えられます。
堀川先生が武田惣角先生から教えを受けたときは、武田先生は同じ技を二度見せては頂けず、その1回で技を感じ、理解する必要があったとのことです。
それを考えると堀川先生が門下生に何回も技をかけていただけたのはかなりお優しかったのだろうと思われます。
錦戸無光(武夫)先生
大阪にて大東流合気柔術を習い、東京にて道場を開く。
北海道を訪れ、堀川先生の合気技を目の当たりにし、それ以降は堀川先生の技を身に着けるため、今までの柔術技を封印する。
東京在住時、堀川先生から「君を仕込んでみたい」と言われ、北海道に居を移す。
堀川先生の道場にて個人指導を受け、合気の技を理解するに至る。
その後、福岡県にて道場を開く。合気の習得だけでなく、瞑想時の光の体験より光の技を習得する。
合する合気
合する合気はまず基本稽古で大きなのびのびとした身体づくりをします。その上、力を全く使わず相手をさばく理合をつかむことを目指します。
この理合を使うことで気の身体をつくるのです。次は秘伝奥儀を伝えます。この奥儀の技は相手が全力でかかってくるのを一瞬でさばく技です。
奥儀の技も気の身体を作ることを目指します。その上で、気の身体になって気を使って相手をさばく奥の深い世界に入ります。
この気を使って合する合気の更なる深い世界に入ってゆきます。
(錦戸無光先生 大東流合気柔術 合する合気の道より抜粋)